父が築き守ってきたプロテック 「人のために」の理念を貫きたい プロテック株式会社 代表取締役 小松 麻衣氏
- 40-50代
- 北海道・東北
- 女性経営者
- 後継者
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福岡県朝倉市で120年に渡り、地元のみならず福岡広域で畳や襖の製造を手がけているのが、株式会社徳田畳襖店だ。三代目の代表取締役社長徳田幸生氏は、福岡県畳工業組合の品質管理責任者を取得し、日頃から仕入れから納品までを製造管理している。一方、四代目の直弘専務取締役は、ラッパーとしての肩書を持ち、「歌う畳屋」としてメディアを通じ多くの人に畳文化を広める多彩な活動を続けている。
直弘氏への2018年のインタビュー記事「畳屋ラッパー参上!徳田畳襖店4代目徳田直弘氏」はこちらから
幼いころの徳田直弘氏は、畳や襖を作る仕事場で遊びながら、ちょっとした手伝いをして育ってきた。
「子どもながらに畳業界の衰退を肌で感じる日々だったように思います」
祖父や父に家業を継ぐよう言われることもなく、最先端と言われた半導体企業に就職を決めた。
「それでも好きな音楽の道が諦められずに、お金をためて会社を辞め、音楽学校へ通いました」
そこで出会った先生の言葉に後押しされ、畳屋という家業を継ぐことになる。
「才能のある人たちが大勢いて、いくらオーディションを受けても落ちるのです」
先が見えない中、相談をした音楽の先生に「業界を盛り上げるために歌う畳屋になって!とにかく1曲畳の歌を作りなさい」としきりに勧められた。
「継ぐつもりもないので畳のことを祖父や父に聞くわけにもいかず、ネットでいろいろ調べて歌を書き上げました」
その「畳ラップ」をライブハウスで歌ったところ、今まで以上に観客に受け笑顔で一緒にのってくれた。
「畳の歌でこんなに人を幸せにできるんだと、とてもうれしくなりましたね」
家業を継いだら、自分の大好きな歌を諦めなければいけないんだと思い込んでいた心がふと緩んだ。
「畳屋になるのもいいなと初めて真剣に考え始めました」
2曲目を書き上げた後、ライブに祖父と父を招待して「畳ラップ」を聞いてもらった。その時のことを幸生社長はこう思い返す。
「初めて聞いたときに観衆に意外と受けていて、良かったなとは思いましたが、それが畳の認知にどう結びつくのか正直よくわかりませんでした。でも考えてみたら、そういう宣伝方法もあるのかもしれないとだんだん思うようになりました」
自分が好きなことを仕事にする、そんな道を選んでほしいと思ってきた。
「私も一度は会社員になってから、家業に入りました。でも今では畳を作る現場が大好きですし、納品のときに見るお客さまの笑顔がやりがいになっています。人は好きな仕事じゃないとおもしろくないし、続かないと思うんです」
どんな方法でもいいから、自分でその道を見つければいいと直弘氏の「歌う畳屋」になりたいという願いを応援しようと決めた。
「福岡市役所前の広場で有名人と一緒に歌ったり、ライブで賞をもらったりしながら、外から評価される姿を見てもらい、家族や友人などに認めてもらえました」
そんな直弘氏は、ラップだけでなく畳職人としての技術力を上げるため、畳の学校に3年通い国家資格を取得したり、い草の産地、熊本に刈り取りの手伝いに通っている。
「一般的な職人とは違う活動をしているけど『畳屋として本当に大丈夫なのか』と心配されるのは嫌なので、国家資格を取得して信頼に足る職人になる努力を続けています」
い草の産地に出向いて作業をさせてもらうのは、しっかり自分の目で材料を見て、触って確かめることでお客さまへの説得力をつけたいからだ。
「畳は細かい作業を積み重ねていき完成させます。ひとつの作業に神経を使いとても大変ですが、自分に負けたくないんです」
とにかく今は、畳への愛で日常が溢れている。
「畳のことを熱く話しまくっていたら、アドバイスをくれる仲間が増え、どんどん畳愛が広がっていくんですよ」
今では畳ネクタイや、畳バッグ、畳ポーチなどのグッズを畳縁(たたみべり)デザイナーの母、依子氏が手がけている。そしてトレードマークの畳キャップを、いつでもどこへでもかぶっていく。
「そうすると『何?畳?』って知らない人と会話が始まり、自己紹介をしながら畳の話ができるんです。みんなひとつやふたつ、畳にまつわる思い出を持っているんですよ」
今では、何でも畳に結び付いて見えるようになってしまった。幸生社長は、
「そんなに畳が好きだったのかと驚いています。私もそりゃ好きですけど、それ以上ですね」
地域に18軒あった畳屋は、後継ぎがいないために廃業したりして半減してしまった。
「ラップは、ヒップホップ音楽の一種。そしてヒップホップはニューヨークのブロンクスという町から生まれたストリート文化です。徳田畳襖店は創業当時から朝倉の町でお世話になり続けているという地域密着性があり、受け継いできたルーツが同じ気がしています」
代々の思いをストーリーにし「畳ラップ」で紡ぐことで地域を大切にしながら家業を活性化できるのではないかと考えている。
「つい先日も小学生が『畳くん元気?』って店に来てくれました。だからい草を束ねたものに絵を描いてプレゼントしたら、喜んで持って帰りました。そういうことを積み重ねていきながら、畳というものの良さが伝わればと思っています」
そんな「歌う畳屋」としての直弘氏の活動は数多くのメディアで取り上げられ、今ではラジオ番組『畳職人徳田直弘のタタミカケル』という番組をもつまでになった。
「職人としての技術も向上し、一生懸命取り組んでいます。昔は恥ずかしがり屋の性格でした。今はどうでしょうね。音楽を通して、畳を知ってもらう活動を頑張っているのでとにかく応援するのみです」
そう、目を細める幸生社長に直弘氏は
「メディアに出たからって、次の日の売り上げにはまだまだ結びついてはいないのですが、いつも自由に活動させてもらえているので本当に感謝しています」
畳を作るときも納品のときもいつも一緒にいるので、日頃は恥ずかしくて感謝の気持ちをきちんと伝えられていないという。
「創業者の曽祖父が畳屋を始めたころに『手に職を』と言っていたと聞きました。自分が家業に入って10年経ち、ようやくこの言葉の深さがわかってきた気がしています。改めて父の職人としての仕事ぶりのすごみや地域とのつながり力の大きさも感じられるようになりました」
今では、あのラッパーの畳屋さんに頼みたいと注文の電話があったり、打ち合わせに行くと「会いたかった!」とサインを求められたりすることがある。
また2019年、ノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌス博士に畳業界の課題解決策をプレゼンテーションし、認められるという機会に恵まれた。
「畳の減少は残念だから、再興活動を続けてほしいと言われ、2ショットで写真を撮らせていただきました」
誰にでも成せることではないと、家族一同驚くとともに、直弘氏の活動の広さを改めて見直したという。
直弘氏の畳愛促進運動は、どんどん広がりを見せ、留まるところを知らない。
「2023年に京都芸術大学通信教育部のデザイン科に入学しました。畳職人としての幅を広げるために建築を学び、空間演出の素材の一つとして畳を生かせるようになりたいのです」
今までやってきた独学ではなく、もっと上へいくために体系的に建築を学び、自分の芯を強く作り直して畳と向き合いたいのだという。
「畳をキャンバスにして、い草の筆で絵を描くTATAMI ARTにも取り組んでいます」
博多阪急などのギャラリーで、個展を何度も開いている。
また、もっと日常的に畳を身近に感じてもらうために飲食店を開きたい。
「畳の話で盛り上がっても、では明日畳をお願いしますとは、なかなかなりません。でも畳に触れられる店があったら、次はそこの畳でお茶を飲もうと言えるじゃないですか」
そうして潜在顧客との距離を縮めて、畳の良さを日常的に意識してもらえるようにしたい。
「いつか世界のトップブランドの店の床や壁に徳田の畳を使ってもらえるように、世界進出していきます」
一度諦めかけた夢を救ってくれたのは、家業である畳だった。そしてその夢が大きくなり、メディアに載り、音楽やアート、建築の世界に羽ばたいていく。
「初代、二代目、三代目、それぞれ考え方も仕事のスタイルも違います。自分は、畳の張替えを軸にしながら、プラスアルファの考えをもち、徳田畳襖店を承継させてもらおうと思っています。畳屋で本当によかったです」
お客さまの声をお聞かせください。
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