内容へスキップ
top > 経営ペディア > 事業承継 > 沖縄人が生み、守り育てる100年ブランドを「スッパイマン」でつくり上げたい 株式会社上間菓子店 代表取締役社長 上間 幸治氏
事業承継

沖縄人が生み、守り育てる100年ブランドを 「スッパイマン」でつくり上げたい
株式会社上間菓子店 代表取締役社長 上間 幸治氏

  • 40-50代
  • 九州・沖縄
  • 後継者
  • 地方創生
  • 新規ビジネス
  • DX

この記事は9分で読めます

株式会社上間菓子店 代表取締役社長 上間 幸治氏

沖縄生まれの干し梅「スッパイマン」は、1966年創業の上間菓子店が全国展開する沖縄を代表するお菓子だ。2023年2月に三代目社長に就任した上間幸治氏は、「スッパイマン」のブランディングを仕掛け、今や世界的な企業とのコラボを数多く実現させている。直販の「スッパイマンショップ」経営、自社のDX化、世界進出などを通じて、「成し遂げなくてはならない」という沖縄100年ブランドになるための構想を語ってもらった。

ブランディングが生む
商品価値に気づかされた

株式会社上間菓子店

上間社長の父にあたる創業者の上間信治氏は、菓子卸業として創業した上間菓子店を1981年に菓子製造業に事業転換させた。
「暑い沖縄では、中国や台湾から輸入された干し梅を日常的に食べる文化がありました」

だが沖縄が日本返還となり、今まで使われていた甘味料が日本では使用禁止の甘味料だったことがわかり、輸入禁止になった。
「それならと禁止甘味料を使わず、味を日本人好みに合わせ、創業者の手で42年前に作ったのが『スッパイマン 甘梅一番』です。安心、安全な干し梅は、輸入干し梅によって下がったイメージ払拭に奮闘し、沖縄菓子の定番になりました」

1990年代後半から、全国に販売網を広げたいと食品展示会に出品し続けた。
「航空費、宿泊費を使って行ったのに、一日数万円しか売り上げがなかったり、『沖縄に売るものなんかない』などと言われ、相手にされないことが続きました」

しかし2000年のある日、有名芸能人が音楽番組で司会者から「今年の夏の思い出は?」と聞かれ、「沖縄で食べた『スッパイマン』です」とテレビで発言したことから、売り上げが急増。メディア掲載が続き、小売店からの引き合いも増え、製造が追いつかない状態になった。

「今の言葉でいう『バズる』経験でした。これは運が良かったと喜んだ反面、自分たちの実力ではないので、早くしっかりしたブランディングをしなくてはと逆に怖くなりました」
この大ブレイクに自分たちの力が寄与したものがあるとしたら、両親が「スッパイマン」の製造を続けてきてくれたことに尽きると思ったという。

自分たちで横展開を
仕掛けた商品が大ブレイク!

株式会社上間菓子店 代表取締役社長 上間 幸治氏

本土へのあこがれから、高校卒業後の上間社長は大阪で働き始めた。
「当時は、日雇いからホテルスタッフなどさまざまなアルバイトをしましたが、アメリカ村が若者向けファッションの最先端の場だったので、そこで販売員として働きました」
数カ月もすると一緒に働くスタッフのおかげもあり、月に1,000万円以上を売り上げる店にすることができた。
「店長候補だと言われましたが、沖縄に戻れなくなると思い帰ってきました(笑)」

上間菓子店が前述のブームもあり業績が良くなるにつれ、継ぐことになるだろうという自覚はあった。しかし起業や経営の経験がないことが自分の不安の種だと気がついた。
「そこで上間菓子店でWebやEC担当をしながら、27歳の時に自分でアパレル会社を立ち上げました。食品の怖さを知っていたので、マーケットがあり、ある程度単価がある商品で、且つ自分たちの強みを活かせるものは何かと考え、アパレルにしました」
法務局に行き登記をするところから始め、得意分野を生かしながら、商品開発し販売してみると6カ月も経たないうちに黒字化することができた。

「そこで教えられたのは、『事業は人との関わりで成り立っていく』ということです。スタッフやお客さまから生まれる商品や販売アイデアに随分助けられました」
2年後、会社を順調な経営状態のまま売却し、そこで学んだことを生かして、上間菓子店の新しい商品企画に取り組むことにした。

そこで目を付けたのが、2008年に那覇にある真和志高等学校が全国優勝した「写真甲子園」だった。
「『スッパイマン』を食べて、スッパイ顔をした写真展を一緒にやりませんかと声をかけ開催したら、多くの地元メディアが取材に来てくれたのです」

翌年には、浦添工業高等学校のデザイン部とコラボし、「スッパイマン」Tシャツを制作販売したところ、たちどころに完売した。
「その時に高校生が描いてくれた『スッパイマン』キャラクターを今でも使っています」
「スッパイマン」キャラクター誕生記者会見にも、多くのマスコミが集まり、生徒の父兄たちもとても喜んでくれた。

「『スッパイマン』が他ジャンルとつながることで、今までの商品にない、ジャンルを超えた広がりが生まれました。こういうことがブランディングにつながるのだと痛感しました」
そこでまずは地元企業と商品開発をしたり、コラボ開発できないかと県外へ営業に行ったりした。
「そうこうするうちに、逆に企業からコラボをしたいという話しを頂き、試行錯誤しながら、新商品を作り続けました。2014年には、沖縄初のエナジードリンクまでリリースしました(笑)」

同時にコンビニ、スーパーの棚を毎日定点観測することからマーケティングを始めた。
「お菓子の棚からおつまみの棚までコラボ商品を展開したいと考え、大型量販店で扱う商品として『スッパイマン 柿ピー一番』を販売しました」

今までの素材菓子としての「スッパイマン」ではなく、品種品目を超え横展開したいと開発した商品だ。
「2017年、狙い通りテレビ番組で取り上げられ、大物コメンテーターの『おいしい。コレハマる』の一言で、サーバーがダウンするほどの注文がくる人気商品になりました」
2000年の運に近い反響とは違い、今度は自分たちで狙った通りに結果を出せた。
「これからの進むべき道と答えが見つかった気がしました」
経営計画を縦軸のバーティカルと横軸のホリゾンタルの二軸で考え、横軸のブランディング、ホリゾンタルブランドマーケティングを提唱していくようになる。

2008年に始まった学生とのコラボは、2020年にはカルビー(ポテトチップス)、バンダイ(ガンダム)、ユニクロ、2021年ポケモン(ピカチュウ)などの大手メーカーやキャラクター、そしてBEGINやORANGE RANGEなどのアーティストへと発展し、コラボ商品が続々と発売され、そのたびに話題になっている。

沖縄の地で企業経営を
やり続けるべき理由がある

株式会社上間菓子店

上間社長が事業承継をしたのは、2023年2月。創業者の父、現会長の兄、総務の姉、そして創業時からずっと支えてくれている母を含めて話し合った。その結果、上間社長が将来の事業発展を考え、構想を立て、実行する役割を担うことになった。
「20代である人に教えていただいた、仕事は役職でするのではなく、立場でするのだということを貫き通しました」

しかし、社長の名前でやらねばならないことがあることも知った。
「行政とのお付き合いは元々私が請け負っていましたが、社長になったことで各方面との関わりが深くなり、このような取材も多くなりました」

そして会社として、沖縄人として大きな目標ができたという。
「創業者は挑戦を続け、商品やサービス作りの精神を生んでくれました。そして先代(現会長)はコロナ禍を乗り越えました。私たちの代は、『スッパイマン』を100年続くブランドにします。それをしなくてはならない理由があるからです」

100年続けなくてはならない理由とはなんだろうか。
「内地には100年以上続く全国ブランドが数多くあります。では何故、沖縄には100年続く全国ブランドが無いのでしょうか?」
沖縄は太平洋戦争時、唯一日本で地上戦が行われた地だ。78年前に焼け野原となった沖縄は、アメリカの統治下におかれ、島民は強制収容所に入れられ、土地は接収された。
「その時に沖縄の経済は、すべてリセットされたのです。沖縄が経済的に遅れていると言われる原因もそこにあります」

全国的に認知度の高いオリオンビールは50年、ブルーシールでも75年の歴史しかなく、今では親会社や経営権を持っているのは内地の企業だ。
「沖縄で生まれ、沖縄人が経営者の全国ブランドは私たちぐらいかもしれません。100年ブランドを目指すなかで、私たちは今まで通り多くの失敗をするでしょう。それでもストーリーを作り続け、どんな筋立てなら100年続けられるのかを考えて、実現させたいと思っています。その過程でシンクロニシティが生まれ、多くのほかのジャンルでも多彩なブランドが生まれることで沖縄経済は次の段階へ進めると思っています」

そのために自分の次を担う後継者の育て方を考えている。
「事業承継は、その会社の希望なんです。だからこそ何十年とかけて次の社長を育成しなければなりません」
お客さまは、上間家の人間が会社をやっているから「スッパイマン」を買ってくれているわけではないという。
「だから親族内承継か第三者承継かなどに関係なく、社長になる資質を見極めます」

「この資質とは、孫子の智・信・仁・勇・厳に近いかもしれません。感謝を忘れず、先人を尊い、謙虚に学び、挑戦し続ける精神力を持ち、グローバルな視野があり、社会動向を読み取り、未来予測することが必要です」
そうでなければ、「スッパイマン」を永続的に残せないと考えている。
「この本質をもつ人ならば、うちなーんちゅでも内地の人でも、外国人でもいいわけです」

そして候補者には、一度は起業の経験をしてほしい。独立することで、自分も感じた「感謝の心」を学んでほしいと考えている。
「継いだ後に、もし会社が潰れても、それは社長だけの責任ではありません。先代にこそ大きな責任 だからこそ、後継者の資質を見極め、それなりの学びをさせながら、時間をかけて育てていく覚悟だ。

データ分析による
商品開発力で国際展開も狙う

株式会社上間菓子店 商品

株式会社上間菓子店 商品

「コラボやイベントを企画するたびに、SNSで拡散された『スッパイマン』に興味をもってもらえます。するとさまざまな企業からさらにお声がけいただき、新しい商品ができます。そのたびにサプライズと感動が生まれ、また話題になるというスパイラルになってきています」

沖縄という立地もよいのだという。
「商品が身近になく、すぐには手に入らないという希少性のバランスも大事です」
売り上げ、利益だけを追求する企業にはなりたくない。
「数だけを追って、廃れるブランドは今までもあまたありましたが、そうなりたくはありません」

コロナの終息を予見して、国際通りと美浜に直営ショップを出した。
「そこで販売している『スッパイマン』ブランドのアパレルは、通販せずに店頭でのみ購入できるようにし、ブランド育成に努めています」

店では限定Tシャツのほかに、グッズなども人気だという。
「業務効率のためのDX化は進めたので、今度は販売管理のDX化に取り組み、店舗で得られるデータを今後の商品開発に生かしていきます」
これまで、勘と行動力と運で築いてきた業績を、今後は取得したデータを分析しながら伸ばしていく。

学生との写真展からスタートした「スッパイマン」のコラボ企画が、今では世界的なキャラクターとコラボできるまでに成長した。
「これからは、『スッパイマン』を認知度もあり人気も高い商品に成長させ、もっと世界にも目を向けたい。そのためには商品にサプライズと感動をつくり続けなければいけないのです」

20歳のとき、経営や事業のことなど何もわからなかった沖縄の若者が、人と出会い、起業し、感謝を教わり、メンターに育てられ、本を読みあさり、学び続け、今、沖縄の地で100年ブランドを紡ぐ新たなストーリーを生み出そうとしている。

株式会社上間菓子店 代表取締役社長 上間 幸治氏

お客さまの声をお聞かせください。

この記事は・・・