父が築き守ってきたプロテック 「人のために」の理念を貫きたい プロテック株式会社 代表取締役 小松 麻衣氏
- 40-50代
- 北海道・東北
- 女性経営者
- 後継者
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茨城県日立市で35年に渡り葬儀業を営んでいるのが、いばそう企画有限会社だ。2代目の林三弘氏は、日立市内の専門葬儀社ナンバーワンや葬儀社格付け5つ星を獲得するも、それに満足せず、日本一の葬儀会社を目指していた。しかしあるきっかけから、自社が日本一になるのではなく、「いばそうの会員さまを日本一」にするのが使命と方向転換を図っている。葬儀社のオリエンタルランドを目指すという林社長にその取り組みを聞いてみた。
いばそうという葬儀社は、1987年に林社長の父である林章二会長が創業した。
「もともとは子ども向け学習事業を手掛けていたのですが、少子高齢化を予感した父は、葬儀業に事業転換しました」
そのため滋賀にある葬儀社に修行に行ってしまった父に代わって家業を支えた後、あこがれの職場だったガソリンスタンドに転職し、10年が過ぎた。
「茨城県でトップの営業成績を取り、全国で11位になったときに、自分でも会社を運営できるのではという自信が生まれました」
電話するたびに聞かされる両親の苦労話に、家業に戻ると決め、仙台の葬儀社に1年修行に出た。
「30歳のとき会社に入社してみると、どんぶり勘定で気のいい親父の気性のせいでしょうか、従業員の働き方の規律が乱れ切っていましたね」
病院から深夜依頼されるご遺体搬送を歳いった自分の親ひとりがペコペコ頭を下げながらやっているのを見て、いたたまれなくなり今後は自分がやると名乗り出た。
「働く姿勢や仕事への取り組み方を改善しようと提案しても、お前から給料をもらっているわけじゃないと社員に無視されました」
そこで、自分が代表になり、借金を含めて全部の責任を取りたいと申し出た。
「父からはまだ早いと言われましたが、母が賛成してくれ35歳の時に事業承継できました」その時に5年間は口を出さないでほしいと頼んだという。
「父はそれをちゃんと守ってくれました。すごいことですよね。ありがたい話です」
社長就任式の時にみんなを前に言った言葉がある。
「今いる従業員の方は、今後はぬるま湯から出て、裸で雪山に登るくらいの覚悟で仕事してほしいと挨拶しました」
それを聞いた会長は怒ったが、社会保険労務士の先生に「その通りだ」と言ってもらえたことが自信になった。
誰も味方がいない中で、業務改革をしようと働きかけた。
「改善したいことがあれば何度でも同じ話をしました。最後は根比べですよ。最終的にはしょうがないと思ってやってくれるまで10年かかりましたね」
小さな成果でもいいから自分で出していきたいと、財務からマネジメント、新しい葬儀の考え方までさまざまなコンサルについて勉強をした。
「最初は何を話されているのかまるで分らないんですよ。知恵熱が出ました。でもやっていくうちにストンと腹に落ちる日がくるんです」
あの時代には戻りたくないという。
「ずいぶんと足踏みしましたね。でもそうやってもがきながら社員へ懸命に働きかけたことで、今は立ち居振る舞いも言葉遣いも、どこに出しても恥ずかしくない会社になりました」
自分が黙っていても、いばそうの会員さんのための話を従業員が話し合っていたり、会社の備品を1円でも安く仕入れようと自ら考え、動いてくれるまでになった。
「すごくうれしいですよね。最初そうやって話しているのを耳にした時、用事があるふりして外へ出て、しばらく車中で泣いちゃいましたもん」
改革の中で一番大きかったのは、オリジナルのお別れ式の導入だ。
「本当の意味での最後のお別れの時間を親族がもてるようにと考えた式です。そこには故人への涙があり、笑いもあり、拍手があります。ごめんなさいやありがとうを互いに伝え合い、まごころがこもったお別れができるように、従業員は練習を重ねます」
新しいことには抵抗を示しがちの従業員からもこれはすんなり受け入れられたという。
「隣に互助会ナンバーワンと言われる大手葬儀社ができて、葬儀がそちらに流れて3年間売り上げがガタ落ちし、時間ができました。その時にこのお別れ式の予行練習を毎日やってたんです」
心のこもったお別れの時間がもてると遺族からも認められ、葬儀件数が元に戻り、今では日立市内専門葬儀社でいちばん多くの葬儀を手がけている
「葬儀の前に故人の人となりをお聞きしたり、以前親族が葬儀をした時のエピソードなどを踏まえて、その方の好きだったことを大切にした式にしようと従業員が考えて、いろいろ準備をしてくれています」
たとえばDIYが趣味だった方には、ペーパークラフトで工具箱や工具を作ってひつぎに入れるようにと親族に手渡したり、お寿司が好物だったと聞けば行きつけだった店に頼んで故人が食べていた寿司を供えられるようにしている。
「全部、従業員が聞き取って、考えて、用意するサプライズなんです。それをすることでお別れの時間が色濃いものになっていく。それがどこにもまねできないいばそうの葬儀です」
そんなお別れ式に感動した親族からくる感謝の手紙が絶えることはない。
2022年、年始のあいさつで、林氏は今年の目標を従業員の前で高らかに宣言した。
「突然、日本一になるぞって言ったんです。みんなぽかーんですよ。今までもいろんなことやらされてきたけど、とうとうおかしくなったって(笑)」
地域で一番というレベルで満足していてはいけない。上を目指すためには、口に出して具体的に行動しようと呼び掛けた。
「じゃあ具体的に何をしたらいいのかみんなで話し合いましたが、抽象的でイメージがわかない」
悩んだ末に、入会したばかりの茨城県北の「ビジネスチャレンジプログラム」アイデアソンの参加メンバーにぶつけてみた。
「そうしたら、会社が日本一になるんじゃなくて、利用者や会員の方を日本一にするべきなのでは?と言われて目からウロコがぼろぼろ落ちました。アイデアソンのメンバーは自分のことのように真剣にわが社の経営課題を考えてくれる人ばかり。本当に感謝しています」
そこからは、会員を日本一幸せにするというゴールがはっきり見えて、やるべきことが具体的になっていった。
「会員が亡くなるのを待っているんじゃなくて、生きている時間をいきいき謳歌していただくお手伝いをいばそうがするんだと言うことで、新しいサービスを考えました」
まずは、人生を棚卸して、これからどう生きるのかを明確にするための「NEXT LIFEシート」の制作や、いきいき過ごす体づくりのための健康寿命体操教室開催に取り組むことになった。
「このテーマでアイデアソンの発表会に参加し、オーディエンス賞と審査員賞をダブル受賞できました」
3代目への事業承継も既にしっかり考えているという。
「息子は今大学生なんですが、あと15年したら、ちょうど35歳。私が社長になった年と同じなんです」
そのころ会社は50周年を迎えるので、そのタイミングで事業を譲りたいのだという。
「利用者から会社に寄せられる無記名のアンケートがあるのですが、その開封係が彼の小さいころからの担当でした」
そのアンケートを読むうちに、自然と後を継ぐことを考えて大学を選んだようだという。
「事業承継の内輪もめみたいなこともあるでしょうけど、それくらいのことを乗り越えられないと、他社との競争に勝てるわけないですから。まずは入り口の第一関門くらい、乗り越えてみろって思いますよ」
なんでもかんでもアイデアマンの林社長がレールを敷きすぎているようにも思うのだが。
「まあどこか他業種に就職させて、そのあと地方の葬儀社で1年くらい修行させて、そこから自分の従業員たちをどうまとめるかでしょうね。でも息子みたいにきれいに道ができてるやつは、将来的に何か必ずつまずくでしょうけどね」
その時どう助けるのか、助けないのか含めて、林社長の将来構想の青写真に既にはっきりと描かれているようだ。
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